うみべには『しのぶちゃん』という、ほぼ開設当初から利用されている女性がいる。
しのぶちゃんは、うみべの中では障害が比較的軽度な人物。
そんなしのぶちゃん、本人がやろうと思えば何でもできるのに、
施設の就労支援というものを受ける気が一切無いというか、そもそも施設で働くということに一切興味が無い。
みんながそれぞれの仕事を行う中、1日何の仕事もせず、ただスマホをいじって紅茶飲んで帰っちゃう。
そう、彼女はいわゆる問題利用者の代表格だった。
ただ、しのぶちゃんには、人には無い彼女だけの魅力があった。
それは『困っている人を前にするとほっとけない』という彼女の才能的な性格であり、
今ではこの才能が彼女の仕事になり、うみべに無くてはならない存在となっている。
今回はそんなしのぶちゃんの紹介をしたい。
彼女のその才能に僕が気づいたのは、彼女がうみべを利用し始めて2年くらい経ってからのこと。
うみべ設立後、初めての行政監査が入ることになった時である。
その頃のうみべは、ようやく経営もギリギリ軌道に乗り始めたばかりの状態だった。
しかし本当にギリギリで、この監査でこれまでの運営不備が見つかり、金銭の返還命令でもあろうものなら簡単に倒産してしまうような状態でもあった。
日ごろは現場でみんなと過ごすことばかりで事務なんてほとんどやらない僕であったが、
急にこれまでの書類の隅々にまで目を通すことが毎日の仕事になり、目を通したところで行政から何が指摘されるかもわからないという見えない未来への絶望感。
施設の代表である僕の精神は完全崩壊してしまっていた。
気づいた時には日々笑いの絶えないうみべの中で、僕の半径1メートルだけが「笑う」という文明が失われたパラレルワールドとなってしまっていた。
そんな時、僕の地獄のようなパラレルワールドの中に自ら入ってきてくれた唯一の存在がしのぶちゃんであった。
「トモさん、目が死んでるよ。コーヒーでも入れようか?」
日ごろ仕事をしない彼女から出たこの言葉が本当に嬉しかった。僕はもちろんためらうことなくコーヒーを入れてもらうことにした。
その時にしのぶちゃんが入れてくれたコーヒーの事を僕は一生忘れられない。
何故忘れられないのか、
しのぶちゃんの優しさも忘れられない理由の一つであるが、実はそれだけじゃなかったのである。
たぶんというか絶対に粉とお湯の分量を間違えているであろう状態でしのぶちゃんが出してくれたそのコーヒーは、
コーヒーカップの上に溶けきれていない粉状のインスタントコーヒー粉が山の様に盛られいた。
それがジワリゆっくりと沈んでいく様は、まるでドラクエの毒沼のようにも見えた。
それでもせっかく僕のためにコーヒーを入れてくれたしのぶちゃんを悲しませたくないと、意を決して飲み進めた先のカップ底部分には、また土のようなコーヒー粉の層が待っていた。
「しのぶちゃん、ちょっとだけ濃いすぎるんじゃないかね?」
自身の内臓の負担に限界を感じた僕はこれまた意を決してしのぶちゃんに尋ねると、
「うん、だってトモさん凄く眠たそうだったから、ちょっとでも元気になって欲しくて」
との返答であった。
これよ。
この『不器用だけど全力な相手への気遣い』こそがしのぶちゃん唯一無二の才能であり魅力なんよ。
こうして僕はすっかりしのぶちゃんの虜となり、残りの土部分をモグモグ食べ上げた。
結果、それから数日間お腹を下すことになったけど、まあ後悔なんてない。
なんせ死ぬほど嬉しかったから。
「たまに相手を死ぬほど嬉しい気持ちにすること」
これが うみべでの、
しのぶちゃんにしかできない、しのぶちゃんならではな仕事。
なので僕は、
今でも時々、僕が疲れている時に、しのぶちゃんが入れてくれるこの配合のコーヒーのことを『シ(死)ノブレンド』と呼んでいる。
『ため息の前に、うみべにおいでよ』
2024/12/04 23:12